『クローバーナイト』/辻村深月

クローバーナイト

クローバーナイト

本日は大安なり』では結婚、『朝が来る』では出産や特別養子縁組を扱ってきた辻村作品の、今回の主人公は子育て夫婦。
着実に人生のステップを上ってきています。

保活、お受験、女性のキャリアと子育て、家事代行など、現代日本の子育て世代を取り巻くテーマが目白押し!社会問題のデパートや!

馴染みのある分野だけに、登場人物の台詞が説明くさく感じられて、はじめはテーマ先行の“小説仕立ての啓発教材”のように感じられてしまったのだけど、そこまで詳しくなかった問題に踏み込み始めたchapter_03以降一気に引き込まれました。

そして最終章!まさかそこに切り込むとは!
思わぬ展開に、伏線に気づかなかった自分を恥じるとともに、久しぶりにゾクゾク感を覚えました。

おもしろかったとオススメできる一冊です。

男性保育士による着替え・排泄介助問題について

千葉市熊谷市長の発言に端を発した「男性保育士による着替え・排泄介助」問題。
(ご本人によるまとめはこちら
 
保育士ではないけれど現場で実際介助をしている身としては、色々思うところもあり、facebookに書いたもの(2017/1/29)をこちらにも転記しておきます。
 
 
だいぶ論点は収束してきているようで、
(1)性虐待のリスク
(2)子ども本人の性的プライバシー・羞恥心の問題
がクリアできればよいのかなと思いました。
 
 
(1)については、「統計的なリスクを元に特定集団を排除するのは差別」ということでよいと思うのだけど、「ムスリムはテロリストかもしれないから排除」がいけないとわかっていても「男性保育士は性虐リスクがあるから排除」は妥当と思う人は、文化差とは違う、生物学的に抗えない犯罪的な素因みたいなものを男性に見出しているように感じます。
 
ただ幼児性愛という時点で標準的な性欲ではなくて個体差レベルの特質なので、そうすると男性・女性×男児・女児の4パターンどれもあり得るので、性別で制限する妥当性はないかなと思います。
 
 
(2)については感じ方の違いもあるのでナイーブな問題ですが、発達心理学的には性的な羞恥心が生まれるのは5歳頃で着替え・排泄が自立する時期と重なると思うので、これも基本的には問題にならないのではないかと思います。
本人の意識にかかわらず乳児期から配慮すべきと言われてしまうと目指すところは完全男女別トイレ・更衣室になるわけで、とても合理的ではない気がします。
 
 
もちろんいずれも本人や保護者の不安の程度に合わせてケースバイケースで配慮はすべきですが、一般論としては同性介助が絶対である必要はないと思いました。
 
 
今回は保育士が槍玉に上がっていますが、親でも教師でも見ず知らずの人でもリスクを言えばキリがないので、幼児期から各世代でCAPを導入するとか、性教育(自衛だけでなく、相手を尊重することを含む)を充実させていく方向にも議論が進むといいなと思いました。
CAPセンター・JAPAN (子どもへの暴力防止プログラム)
 
 

子どもへの性的虐待 (岩波新書)

子どもへの性的虐待 (岩波新書)

映画『月光』

性暴力・性虐待の被害を描いた映画『月光』

製作費のクラウドファンディングに協力したリターンでチケットをいただいたので、見てきました。

以下、ネタバレ含みます。



***

ひとりで細々とピアノ教室を営むカオリ。ある夜、教室主催の発表会の帰りに彼女は教え子の一人であるユウの父親トシオから性的暴行を受ける。この事件は彼女の心身を傷つけただけでなく、過去の忌まわしい記憶まで呼び覚ましたのだった。一方ユウもまた父親からの性的虐待にさらされていた。自らの被害を誰にも打ち明けられず、深い孤独の底で苦しむカオリとユウ。再び出会った2人は運命に導かれるように痛みを共有していく。そして、カオリはユウの願いを叶えるため、ある決断をするのだった...
 

公式サイトに掲載されているあらすじがこちら。
読めば大方のストーリーは想像してもらえるのではないかと思います。


自分がなぜこの映画を見ようと思ったのか。実際に見て何を持ち帰ったのか。

言語化するのは難しいけれど、一言で言えば「被害のリアリティの体感」ということに尽きると思います。


声にならないうめき、髪をかきむしる仕草、魂を失くした表情。

そういう苦悶と絶望の描写には、「本人も悪いのでは」「なぜ誰にも相談しないのか」といったよく聞く薄っぺらい疑問を吹き飛ばす力がありました。

被害者と出会う可能性のある職業の人、特にその恐怖を想像しづらい男性こそ、見ておくべきと思う映画です。


***

主人公の女性は最後、状況が動く描写で終わりましたが、小学生の女児のほうはどうなったのか。

そこだけモヤモヤしています。

そちらにも救いの一端が見えればなおよかったなと。


関連記事も併せてどうぞ。

性暴力を描いた映画『月光』、男性監督が作品に込めた思いとは(治部れんげ) - Y!ニュース

「魂の殺人」と呼ばれる性暴力被害を描く映画「月光」から見えること|ウートピ

性暴力 「声なき声」を映画で伝える|NHK NEWS WEB

『最強の笑顔になれるめめっせーじ Postcard Book』

去年の夏からケラケラというバンドにハマっていることは以前書きましたが、そのボーカルのMEMEさんが描いたイラスト&メッセージ集。

出版記念のサイン会も後日あるというので、Amazonの予約をキャンセルして、お店まで買いに行ってきましたよっと。



もともと相田みつをとか、19の326さんとかの"一言メッセージ"は好きだったので、たまにTwitterにupされるMEMEさんのイラストもいいなと思っていて。

ゆるかわいいキャラクターと、前向きなメッセージに癒やされます。



今回の本の中では、

 
「あぁ、自分はダメだなぁ…」って

自分を自分で苦しめるんじゃなくて

「今日もよくがんばった」って

自分に優しくなりたい。
 

っていうのが、ポジティブだけどアクティブすぎず個人的に好き。


全体的には意外と背中を押される系メッセージが多いので、「修造くらい熱いのもOK!でも修造カレンダーを部屋に飾るのはちょっと…」という人にオススメです。



あと、裏表紙に本編にないイラストが1枚あるのが気になる…。どこかで限定配布?第2弾への布石?楽しみです。



***

2016.3.26追記。

出版記念ミニライブに行ってきまして。
セトリや曲の感想は、まだ他公演が残っているので自重しますが、とりあえず癒されたー。

夜遅い時間設定もあるけれど、本当に店の片隅で収まるようなライブで、1ファンとしては嬉しいような寂しいような。

そして本人が現れてもキャーともワーとも言わず微笑む行儀の良い観客たち。笑(自分含む)



でもそういう規模だからこそ、「手の届かない芸能人」ではなく、1人の同世代の人として、すごいなぁと改めて思った。

自分は自分の領域のプロとして、同じだけのパフォーマンスができるだろうか。

借り物じゃない自分の言葉で、誰かの心に響くメッセージを届けられているだろうか。

とか、そんなことを考えたり。



歌や言葉にも励まされるけれど、そんな彼女の姿に一番刺激を受けたかな。



サイン会でちょこっと仕事の話をしたら、すごい真顔で質問されて、それだけでもやっぱり誠実な人なんだなーと思う。

「一緒に婚活がんばりましょう」とか言おうと思ってたのに、忘れた。

笑顔をもらった分仕事がんばろうと思いました。

『発達障害&グレーゾーンの3兄妹を育てる母の毎日ラクラク笑顔になる108の子育て法』

著者の楽々かあさんという方を存じ上げなかったのですが、少し前にWeb上でバズっていた「声かけ変換表」を作った方だそうで。

生活の中で子どもが困っていること・親が困ることに対して、対応の工夫やお助けアイテムが非常に具体的に紹介されている、とてもオススメできる本です。

年齢でいうと3,4歳〜小学生、知的には軽度の遅れ〜標準の子たちがメインターゲットになると思います。



当事者家族による体験談やアイデアブックは昨今あふれるほど出版されているけれど、この本のオススメポイントは3つ。


1つ目は上述の通り、紹介されている工夫の具体性と量が類を見ないこと。

カラー写真付きの自作ツールはもちろん、遊び方や学校の先生への伝え方など、「なるほどなぁ」「これは使えそう」というアイデアが盛りだくさんです。

実生活の中でこの何倍もの工夫を日々トライアンドエラーしながら編み出していらっしゃるのだと思うと、本当に頭が下がります。



2つ目に、1章を割いて親御さんへのフォローが書かれていること。

自信をなくしたり、イライラしたり、自分のことを後回しにしがちなお母さんを、「頑張り過ぎているお母さん」とリフレーミングし、手を抜いていいんだよ、休んでいいんだよ、というメッセージを繰り返し伝えています。これは本当に大事だと思います。



3つ目に、「発達特性」「個性」と言われることの多い定型の人との違いを、「体質」と表現していること。

これ、僕も保護者の方に説明するときにそう言うことが多いんですが、実際書かれているのはあまり見ないので、見つけた!と思いました。


僕としては「体質」という言葉を、「自分ではどうしようもない(努力でどうにかなるものではない)」「個体差であって欠陥ではない」というニュアンスを含んで使っています。

例えば僕が「会議や講演会など人の話を一方的に聴き続ける場面でどうしても寝てしまう」のも、体質なのでどうしようもないのです。


それはさておき、「牛乳を飲むとお腹がゆるくなる」とか「花粉が飛ぶ日は鼻水が止まらない」とかそういう“体質”が、本人の意思と関係ない身体の特徴と理解され、「じゃあ牛乳は飲まなくていいよ」「じゃあマスクしなよ」と対応してもらえるように、

「授業中じっとしていられない」→「じゃあボールニギニギしてていいよ」、「板書が負担で話が耳に入らない」→「じゃあタブレットでノートとりなよ」、みたいな対応が早くあたり前になればと思います。


ツールもDLできる楽々かあさんのサイトはこちら。
http://www.rakurakumom.com/

『家族幻想』

杉山春さんの新著。「ひきこもり」がテーマではあるけれど、扱われているのはその背景にある「家族」の病理。

「家族」、あるいはもっと上の世代からの「イエ」の規範に縛られ、内面化していったその価値観・役割に自分が見合わないことで、身動きが取れなくなってしまう人たちの物語。


理想の子どもとしての役割にとらわれた人の問題が「ひきこもり」として、
理想の親としての役割にとらわれた人の問題が「虐待」として、
ときに噴き出してくるのだろうと思う。


「我が子に他者性を持つことは、実は、現代の新しい『規範』なのではないか。」

という提起には、深く頷いてしまった。


親子は他者だというと、西洋的個人主義で日本には馴染まないとかいう人もいそうだけれど、「子どもは親と違う感じ方・考え方をする別の人間だ」という認識は、もっと共有されていいと思う。


叱られたって期待されたって、やりたいことはやりたいし、できないことはできないんだよ。


そこで方針転換することにもっと寛容であってほしいと思うし、

子どもが逃げたいと思ったときに、受け皿を用意できる社会でありたいと、ここでも思った。


関連:『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』

『難民高校生』『女子高生の裏社会』ほか

難民高校生----絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル

難民高校生----絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル

最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)


「子ども虐待は鬼畜のような一部の異常な親がするもの」という時代から、「どんな親でも悪条件が重なれば虐待に至りうる」という見方が、関係者の地道な啓発もあって、それなりに広まってきている昨今。

それでも“虐待死”に至るような重大事件を起こすのは、“そういう親”だという印象を、最近の報道は植えつけようとしているようにみえる。


それはあながち間違いではなくて、確かにそういう“ハイリスクな層”の人はいるのだけれど、でも決して彼らは生まれつきの猟奇的な人格の持ち主ではなく、もうちょっと込み入った背景があるはずだろうと思う。

(最近の事件のことは詳しく知らないので、ここからは一般論。)

その“込み入った背景”のイメージにピッタリはまったのが、これらの本で紹介されていた“貧困層”の人たちだった。



***

ここでいう貧困とは、単に経済的な問題ではなく。

『難民高校生』で引用されている湯浅誠氏の表現だと、人間関係や精神的な余裕を含めた「“溜め”のない状態」。

『最貧困女子』では「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」(+「精神障害発達障害・知的障害」)が貧困の背景として指摘されている。



親との関係が悪く(多くは虐待的な環境で)家に居られない。

学校ではいじめられた、あるいは通っていられる状況ではなかった。

福祉システムは彼女らの存在に気づいていない、あるいは問題の発端である親元に返すことしかできない。


こうして日常を過ごす居場所をなくし、信頼のおける大人、助けてくれる大人と出会うこともない子どもたち。

彼ら・彼女らにその日をしのぐ衣食住やお金、そして人とのつながりまで提供してくれるのは、彼らを利用したい“裏社会”しかない、という現実が、『女子高生の裏社会』『最貧困女子』の2冊で描かれている。*1

(『女子高生〜』では、そこまで貧困とは言えない層にまで“裏社会”が近づいていることも書かれている。)



人に認められ大切にされた経験のない人が、泣きわめきときに反抗する子どもを当たり前に受け入れるのは難しいかもしれない。

誰かに助けてもらった記憶のない人は、困ったときに支援を求めるという選択肢がそもそもないかもしれない。


「関係性の貧困」は、子育てにもそうやって顔を出す。


***

そこまで深刻でないケースも含めれば、こういう居場所のない子どもたちがたくさんいるということは、ちょこっと関わっている相談業務で肌で感じている。

にもかかわらず、正直、今の児童福祉制度では救う手立てがない。

児童相談所は子どもの命に関わるケースで手一杯。
自宅に“心理的に”居場所がない、と言っても、簡単に保護はしてもらえない。


いざというときに泊まれるシェルターのような「居場所」と、困ったときにちょっとしたことを相談できる「頼れる大人」。
この2つが、すぐにでも必要とされているのだけれど、「居場所」となる施設は相当に限られているし、「大人」も、受容力と倫理観をもち相性の合う人と出会えるかどうかは運まかせだろう。


そんなん最優先で整備すべきなのに、と思う僕の考え方は過保護、なのだろうか。そこまで「支援」しなくても、多くの子は最終的にはなんとかやっていけるものなのだろうか。

でも、そこで取りこぼされる一部の人の問題が、こじれて更なる問題となる前に、掬いあげるのが「予防」というものだ。
そこをケチっても結果はマイナスリターンであることは、マクロなコスト試算でも出ているし、何より誰ひとり取りこぼされても仕方のない子どもなんていないのだからと、そういうことは青臭くても言っていきたい。


興味を持った人のために、著者仁藤さんが代表を務める団体Colaboが運営する、一時シェルターへの寄付ページを貼っておきます。
虐待などを背景に家に帰れない少女が夜間駆け込める「一時シェルター」を開設・運営したい!

*1:この構図は『累犯障害者』で描かれる、刑務所に行き着く人とまったく同じ。
http://d.hatena.ne.jp/blog320/20130202/p1