映画『子宮に沈める』

大阪二児置き去り死事件を題材にした映画を観てきました。

映画の公式サイトはこちら→『子宮に沈める』公式サイト

以前実際の事件のルポを読んだ際の感想はこちら→『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』



この映画はそのタイトルからして公開前にすでに議論を呼んでおり*1、僕も初めはこれはないだろうと思っていました。ただ、タイトルの指すところは2通りの解釈ができます。

A.「(母親が)(子どもを)子宮に沈める
=産まれてきた子どもをなかったことにする(時間を巻き戻すようなイメージ)

B.「(社会が)(母親を)子宮に沈める
=子育ての責任を母親一人に押し付ける(母性の象徴としての"子宮")

対談記事の中で、監督は後者の意図を込めてつけたタイトルであることを明らかにしています*2

多くの人に観てほしいのならば、センセーショナルなタイトルで不快感を煽るのは得策ではないのではと思いつつ、そのメッセージがどのように表現されているのか、興味を持って映画館に足を運びました。



※以下、ネタバレ含みます



観終わった感想。率直に言って、期待に応える内容ではありませんでした。

幸せそうな親子生活が徐々に荒んでいく様子が一見リアルに描かれるものの、離婚した母親が誰にも助けを求められず、また救いの手も差し伸べられず孤立している背景事情や、資格取得を諦め水商売に走らざるをえない必然性といった、女性を追い込む社会構造については一切描写がありません。

長期に渡る置き去りののち帰宅した母親が、すでに亡くなっていた児の遺体を冷静に処理し、生き延びていたもう一人の児もあえて手にかけるというラストの描写も不可解。
その行為は社会から負わされた育児の責任を抱えきれず、現実から目を背け続けた結果としての、受動的な行為としてのネグレクトとは意味合いが異なります。

子ども虐待の悲惨さ、残酷さを生々しく伝えるという点では成功しているかもしれませんが、この映画だけを観たら、やはり母親の責任論になりそうな気がして、問題構造の啓発として人に薦めたいとはあまり思えませんでした。

監督の意図に反して、皮肉にもタイトルの解釈Aのほうに近い作品になっているのでは、という印象が強かったです。



あと一番気になったのが、おいおい3歳の子役に何させてんだよ、というシーンが多かったこと。鑑賞中もそこばかり気になってました。

実際撮影中は子役の拒否が多く大変だったそうで*3(例えば「やっていいよ」と言われたことをやったら役柄上怒られて混乱したとか。そらそうだろう)、それだけの負担を強いたことが報われる作品になったのかどうか。

子役の子の健全な発達を祈っています。