電車内泣き声論争にみる社会

【炎上】ホリエモン、新幹線で泣く子供に対し「舌打ちもしょうがない」「睡眠薬飲ませればいい」と発言 - NAVER まとめ

昨日に続いて、ですが。
今日は「車内での子どもの泣き声が受け入れられない人は公共交通を利用すべきでない」という意見と、「保護者は子どもが公共の場で泣かないようできる限り対策をとるべき」という意見の論争。

これ、前者は「どんなに手を尽くしても泣いてしまうことがある子ども」を想定しているのに対し、後者は「"子どもは泣くもの"と開き直ってあやそうともしない親」をイメージしているので、そもそも議論が噛み合っていないんですよね。

乗客は公共交通を利用する以上子どもの泣き声を我慢すべきだし、保護者もそれを迷惑と感じる人がいること自体は理解して対策を講じるべき、お互い様、というところにしか終着点はないでしょう。

「子どもの泣き声をどう感じるか」というのは個人の感覚なのでそれをどうこういっても変わらないし、火種になっているおしゃぶりや睡眠薬の使用も、悪影響の根拠について知識がないのでここでは触れません。


ただ。

子どもにも親のタイプにも幅があるがゆえに、どちらかのスタンスに立ったとき、その考え方がもたらす弊害は出てくるでしょう。

すなわち、「子どもを極力泣かすべきではない」という考え方は、最大限配慮したとしても泣いて誰かに迷惑をかけるかもしれないと謙虚に考える保護者を萎縮させ、肩身の狭い思いをさせるかもしれない。

他方、「子どもは泣いて当然」という考え方は、泣こうが喚こうがお構いなしというDQN親にお墨付きを与え、特権的な振舞いを増大させるかもしれない。

こうした弊害も踏まえてトータルで考えたときに、僕個人としては、後者の方がマシだろうと思うのです。

なぜなら、後者は目に見えるから。横柄な人がいたとして、個別的にその人に注意をしたり、助言をしたりすることは可能。

でも、前者の沈黙した人は、表に出てこない。誰もフォローできないまま、しんどい思いを抱えていく可能性があるから。



もう少し問題を広く捉えて、「公共の場で他人の迷惑となる行為をどの程度受け入れるか」という視点でみたとき、前者と地続きにあるのは「他人の迷惑となる行為は基本的に悪であり、想定しうる限り本人が自粛する」社会。

後者が目指すのは、「他人に迷惑をかけざるを得ない背景を斟酌し、ある程度受け入れ、許容する」社会。


確かに迷惑行為を受けるのは嫌だし、イラつくし、できることなら避けて通りたい。

でも、世の中には、「他人に迷惑をかける可能性を背負わなければ、普通の生活を送るのが困難な人」というのが結構いる。

どんなに準備しても些細な出来事でパニックを起こす自閉症の子もいるし、エスカレーターで右(関西なら左)にしか立てない人もいるし、絶えずゼーゼー荒い呼吸をしてなきゃいけない人とかもいる。そういう「邪魔で迷惑な人」がどうしてそうしているのか、多くの場合見ただけではわからない。

わからないからといって状況を自分に都合よく解釈し、ただでさえ生きづらさを抱える人に周囲が追い打ちをかけるのは、酷だし、アンフェアだろうと思う。

そして、自分がそういう立場に立つかもしれない可能性は、いつだってある。

僕はたまたまそういう人たちの存在を意識しやすい環境にいるので、やっぱりどうしても後者を支持したくなってしまう。


別にそちらが絶対だというわけではないです。ただ、どちらがマジョリティを占めるかで今後の社会は変わっていくだろうと思うので、こういった論争の展開は興味深いと思いました。