「自閉症スペクトラム」という捉え方

人々を自閉症とみなす社会――自閉症スペクトラム概念の拡大を考える

シノドスの論考を読んで思ったこと。

要旨は以下のような感じ。

・「自閉症スペクトラム」は「"自閉的な特徴をもつ人"の中での自閉性の濃淡や知能の高低を表す概念」と捉えるのがスタンダードだが、日本では「"自閉症"と"健常"を連続的に捉える概念」として用いる専門家が少なくない

自閉症の症状と多少"空気が読めない"ことは質的にまったく別の体験であり、後者を自閉症という用語で説明するのはおかしい

自閉症スペクトラムを拡大的に捉えることは、自閉症へのスティグマを軽減する点では有益といえる

・しかし、コミュニケーションが苦手なことを自閉症という概念で説明しても、有効な治療法も介入法もないので意味がない

・反対に、一般の人と異なる自閉症者の困難性が理解されなくなったり、コミュニケーションが苦手なことは"障害"であるという新たなスティグマを生み出すので、副作用が大きい


自閉症スペクトラムの概念は、障害を一般化するものか、一般を障害化するものか、といった話。

自分としてはこの概念のわかりやすさを良い方に受け止めていたので、一言言いたい気持ちが残った。


科学的な証明は難しいかもしれないし、"発達障害"や"アスペ"といった言葉が市民権を得てきた昨今、確かにその表現が悪意のあるレッテルとして用いられる危険性はあるだろうと思う。

ただ一方で、そういった枠組みで自分や相手を理解することで、救われる人も少なからずいるだろうと思う。


障害の障害たるゆえんは、"困っている"ことである。
この著者のような捉え方をしたときに、では空気が読めないことで困っている人は、どうしたらよいのだろう?
自閉症スペクトラムという呼び名がつこうがつくまいが、その人が困っている状態は変わらない。


障害の枠組みで誰かの苦手さを理解することの最大のメリットは、「本人の努力不足」や「親のしつけ」のせいといった、自己責任論からの解放だろうと思う。

コミュニケーションの苦手さや、臨機応変な対応の難しさといった、目に見えない困り感に対するアプローチは、SSTのような本人のスキルアップももちろんあるけれど、周囲の理解と環境調整によるところが大きい。

「拡大的な自閉症スペクトラムの捉え方」は、明らかな障害とは言えないかもしれないけれど、生活の中で"ちょっと困っている"人に対して、責めるのではなく支えようという視点を、提示するものだと思っていたのだけれど。


著者は「現行の制度において「空気が読めない」程度の人に対して、支援の枠組みを作ったり、福祉的な財政出動をするのは不可能である」と言っているけれど、別にそんな大層なことをしなくても、世の中の人が自分の周囲にいる"困った人"は、実は"困っている人"なのだと、見方を変えるだけでずいぶん違うだろうと思う。